う〜ん?

天地正大の気、粋然として「神州」に『鍾(あつ)まる』・・・

日本を「正気」に立ち返らせる意図で、ブログの更新に務めているが、未だ、アメリカのオバマは、「日東エージェンシー」を「神様」に返さない。アンビリーバボーって感じ。・・・・・・

病巣を抱えたままのアメリカに、義憤を感じるのである。・・・

そういえばアメリカは、宇宙計画の前進基地に月への移住を計画してたが、早々と撤回した。・・・・・・

その理由は、政治的には月には、民主党や共和党に一票を投じる民が居ないから・・・

経済的には利益を望めず不利益だから・・・・・・

軍事的には勝利を望めず敗北に帰するから・・・・

映画の最新のトランスフォマーでは、月に異星人?が居て地球が侵略される構造を描いている。

アメリカの最近のテレビドラマは、地球が異星人に侵略されるパターンが異常に多い。・・・・・・

自然との共存が下手になり、異星人の干渉を受け易い事は事実でもあろう。

そんな訳で日本人の気概を示す歌をプレゼント。

昭和ブルース
うまれた時が 悪いのか
それとも俺が 悪いのか
何もしないで 生きてゆくなら
それはたやすい ことだけど

この世に生んだ お母さん(お父さん)
あなたの愛に つつまれて
何も知らずに 生きていくなら
それはやさしい ことだけど

なんにもせずに 死んでいく
俺にはそれが つらいのさ
とめてくれるな 可愛い人よ
涙ながれて 来るけれど

見えない鎖が 重いけど
行かなきゃならぬ 俺なのさ
だれも探しに 行かないものを
おれは求めて ひとり行く

謹賀新年・・・・・・

禁我信念・・・・・・

金・臥薪(嘗胆)・念

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麁(そ)?・・・「雄叫び桜鍾青年隊」からの転載?

 

 

 

 

花鳥風月の中、「ほととぎす」が美意識の象徴とされるは、「てっぺん、かけたか〜」と鳴いて自意識の正調を迫るから・・・・・・

事情を知らぬ者は、「ほととぎす」を子育てを拒んで、他の鳥の巣に卵を産みっ放しにする悪鳥の様に言うが、「ほととぎす」は「てっぺん、かけたか〜」の告知義務の為、喉(のど)がつぶれて死ぬまで「てっぺん、かけたか〜」と世を憂う鳥なのである。

昨今の育児拒否の親達に知って欲しい事実でもある。

大局観の「てっぺん、かけたか〜」で、「てっぺん」を敬える者は「順応」を知り、「てっぺん」を敬う道理を失意する者は「反応」を知る。

仏教観では、仏道、仏法の修行(利益)、修養(功徳)を前提に信仰しなければ、「順流(じゅんる)」と言う煩悩として疎(うと)んじられる。

埼玉県の「飯能」は、「だいだらぼっち」の伝説が残る。

現地(飯能)では「だいだらぼっちゃ」の名で親しむ。

国債依存度が49%に成り、理念無き政治の「粗悪」が露呈した。

大体、理念を具えず政治に参加出来る確執(かくしつ)が存在するものだろうか?

また、建国の大義に向かい「礼」を惜しんで「理念」が宿るのだろうか?

選挙時の「公約」は守りきれないので、「マニフェスト」なる造語を設けたが、その「マニフェスト」も放棄し、国会議員の国語力は『信』に価しない妄語と化した。

原発事故の原因とされる、炉心の冷却の中断が官邸からの指示と明言化されても糾弾しない法治国家・・・・・・正義ッて何ですか???

国語力が無けりゃ、政治は無理でしょう。・・・・・・

「信」を放棄して、誰が幸福になれるの??????

「物」の価値観が希薄になれば「物騒」になるのは、当然の報いである。

国語の低迷を憂える右翼の勉強で、「国家社会主義」を学ぶのは、「国(国政)」の存続を認めるなら、「国」が最大的な保証能力を具える必要からだ。

「保証能力」が、何なのか?次の段階で「農本主義」を学ぶ。

随所に自然(恩恵・貢献)が併存する「農」を学ぶのである。

有為、有益、有効なる国の「食の連鎖」の確立を学び、実践の機会を求める。

仏教の信仰も不退転に近づくと、『麁(そ)』に目覚める。

今までが「麁妄執(そもうしゅう)」である自責にたつ日が来る。

一般的には、「粗」の「粗い」意味合いで「麁」の漢字を用いる機会も少ない。

「麁」には「あらい・雑・おおまか・ばらばらになる・間がすける」などの意味合いが有る。

テレビやパソコンの画面も、人為的であり「麁」なのである。

「麁」の漢字は、「鹿」を三つ組み合わせたもの、或いは「鹿」の上に「分」を載せた物が原字ともされる。

映像のデジタル化が問題視にもされる。

デジタル化で画像や音声の合成やデフォルメが主流?に成り易い一面もある

デジタル化で視覚効果(映像効果)を充たせば?、虚飾、虚妄、虚構にまで至りそう。

映像の修整(合成?)も度を超せば「虚偽」になる。

そんな危険な画面に没頭、没入すれば「眼精疲労」が起きる。

危険を回避するには、「桜鍾青年隊(伊沢サン)」に寄付するか、関係する「桜鍾青年隊」の資料に合掌するしか方法が無い!!!

業務命令です」・・・視聴者・・・「承知しました」・・・

「調」で「みつぎ」と読み、意味は古代からの税を考慮すれば、「桜鍾青年隊」への寄付は慈善行為の花形でもある。

花形と言う事は主流でもある。ゆえに「主流」を疎んじ、「亜流」に寄付を為すは「偽善」とも言える

「目」は心の窓という位、心が外界を認知、認識する大事な身体機能である。

仏教でも、悟りの究極性に「一生補処」と云う「補い」一点の存在性の確立が設けられている。

自然を介さない人為的な関係も「麁」である。

スポーツ、芸能・・・マスコミに登場している人達の殆(ほとん)どが「麁」である。

私生活を正さず、伝道を意識しない社会などあってたまるかって感じ。・・・・

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の世界も、各々、『道(三千)』が意識されて「昇華」の救いが有る。

マスコミに登場する、その「麁」に無意味なエールや声援をおくるのも、考えものであろう。

個々の行動、行為は自然を基調として、逸脱か?適応か?の価値基準が判明に向かう。

「麁」を一般的表現にすれば、「欠落」、「間欠」、「間歇(かんけつ)」である。

禅は「間欠」を認め、「宇宙大の自己」を証明せよと迫る。

心ある「禅師」は、宇宙大の自己の証明に「喫茶」を介して、背景の構築に至れとも説く。

事実、世界の至る所で「茶」や「布」を、「改心」の機会とする風習は存在する。

物事には、すべて「裏(背景)」があり、心にも「裏(背景)」が有ると説く。

茶道が日本で方向性を見出す時節でもあろう。

だが、この背景を得る機会は「成道(じょうどう)」の「師」を敬って機能性を得る定則が有る。

今年も残す所、あと一週である。

「悔いの無い」、「悔い改め」の手段、方法に着目すべきかと思う。・・・合掌

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羽子板市?

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羽子板を何故?遊具用ではなく飾り物にしたのだろうか???

江戸時代には、後世への訓戒の文化が色強い。歌舞伎は前面の虚飾を「押し戻し」、「押し戻し」の集大成で「見得(見栄)を切る」のである。

能は精進の姿勢の「直し」、狂言は「言葉の不備」、落語は心の性格で我慢を辛抱、忍耐に直して、その落差である「集落」を「おち」とする。

茶道は、日常性に無量無辺を説く「祖師」を敬い、華道は無量無辺を説く「祖師」に献花するのである。・・・・・・何故?「祖師」への伺候(しこう)を疎んじ、人間達に媚びを売る行為が「道」と呼ばれるのか不思議でならない。

徳川家康の旗印には、「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんきゅうじょうど)」と記されていた。

徳川家は浄土宗で、浄土宗の教えに『染汚(ぜんな)を排せ』と云う強烈な訓戒が有る。

何が「染汚」か?その真贋を正す為の浄土真宗が存在した。

薩摩藩は徹底して、浄土真宗の信仰の入国を拒んだ国(藩)として有名である。

「厭離穢土」を意識して、徳川幕府を『江戸』に置いた真意とは?

限られた階級だけに、文字文化が許され、文字文化から遠ざけられた民衆の言葉は品格に欠けた性格を帯びてしまう。

為に武士の働きどころが有り、封建制が確立され、風土を愛する土壌にも通じていくのである。

考えてみれば、赤ちゃんとして「オギャー」と生まれて、他人の言葉や感覚から影響を受けて、外の環境に対応すべく自己形成に励んだのが今の自己であろう。

悲しむは「今」の精算に欠けている事である。

日本人の思考回路は、「過去」と「未来」を踏まえて「今」があるとする。これでも自己の充実は計れないので、未来に宗教性(芸術性・哲学性)を沿える。この一貫性があって仏教の「小乗・大乗」の「乗り物」が理解に向かう。

三千世界(神道は三千でみち)を加味して「中今」と称す。人間の法律の不都合で、宗教性の何たるかを知らされない不備もある。

自己に言葉が少なければ、他を賛美する努力に欠ける。

自己に言葉が多くなれば賛美しない不都合が生じる。

自己が馬鹿になれば、他の利口が感じられる。

自己が利口を誤摩化せば、他を悪く言ってしまう。

「は・誤・イタ」を飾り物にして、履修、履行すべき相対(相反)の逸脱を阻止する事由があったのである。

「は」は択一を意味し、「誤」を少なくし「御」とするから、「イタ」はインドの言葉で「到達」を意味する。

インド思想では、単数、双数、複数と分け、相対(相反)の履修は「双数」の悟りに位置する。「僧」は「複数」の単位で、一身に三人以上の修行、功徳を擁する意味が有る。

インドのジャイナ教は、相対主義で「双数」の悟りを志向する。ジャイナ教の「僧」は「一辺倒」になるので、乗り物に乗らないので有名・・・・・・徒歩のみで布教する。

また「一辺倒」になるので着物を身にまとわないのでも有名、「素っ裸」で布教する(裸行派)・・・白衣派は着衣する。裸行派では女性も裸行しなければ解脱を認めない。・・・・・・貴方の知り得る「相対」は、この事実についていけますか??????。

日本人は「展転の美意識」を賛美する。簡易な表現にすれば「審美眼」を求めるのである。合掌

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。

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忘年?

我に三等の弟子有り。いわゆる猛烈にして諸縁を放下(ほうげ)し、専一に己亊を究明する。これを上等となす。

修行、純ならず駁雑にして学を好む。これを中等という。

自ら己霊の光輝を昧まし、ただ仏祖の涎唾(えんだ)を嗜(たしな)む、これを下等と名づく。

若し夫れ心を外書に酔わせ、業を文筆に立つる者、これは剃頭(ていとう)の俗人なり。下等と為すに足らず。いわんや飽食安眠散逸にして時を過ごす者、これを緇流(しりゅう)といわんや』・・・「夢窓国師」・・・「緇流」の意味は、「緇」は墨染めの衣、墨染めの衣を着て流されている者を指す。

いよいよ今年も残す所、十日余りとなりました。

年の移ろいに至らなさを恥じ、自責の念を強く抱いて信念を迎える支度(したく)を盛んにする時節ともなりました。

中国の賢者の言葉に「天地は萬物の逆旅、光陰は百代の過客」とあるように、生きとし生けるものは「逆」の「はたご(旅籠)」に居ながら、「生死の道」を極めていくものであります。

「逆旅(げきりょ)」が意識されれば、「反古(ほご)」にせず、「保古(ほご)」を得る道中とも成りましょう。

思えば、この一年、総理大臣・国会議員然り、警察庁が警察庁のマークの如く、「旭日」を尊び、邦家の歴史を歪めなければ、大地震も、放射能汚染も、あるいは台風・豪雨の被害も無かった筈・・・・・・。

「反古」にしてはいけない自然の倫理に徹底してくれれば、悲劇の年にはならなかったものと悔やまれるのです。

「保古」の道は、「途切(とぎ)れ」を警戒し、「途絶(とだ)え」に至らぬ心がけを必要とします。

「途」は「みちなかば」と言う意味です。「みちなかば」を「切る」で「途切れ」、「みちなかば」を「絶やす」で「途絶え」の意味と成ります。

死しても、「三途(さんず)の川」の前で、生前の「みちなかばの生」に対する姿勢を問われます。

「禅」では何層、何十層に及ぶ表現力の未熟が、自己の意思決定に影響があり、為に底辺での修行が求められます。

禅寺での修行には「旦過(たんか)」と向き合う事が求められます。禅寺での旦那(だんな)とは、「那」と云う時間の悔い改めを経ている意味合いが有ります。

「刹那(せつな)」とは、「悟り」を得た事を近隣に旗を振って示す行為でもあります。

正月元旦の「旦」は「あさ」の意味で、自己の存在の元の「朝」を同時的に迎えて、自己の心身の整合を促す意味合いでもあります。

西洋では、「魔女」になって死者を冥土に運ぶ能力の為、自殺と離婚をしないカトリックの修行も有ります

この意義を失意し魔女を殺せば、延命が可能という妄想に駆られ、「魔女狩り」があったのも西洋の歴史に有ります。

・・・・・・自己の存在理由(レーゾンデートル)を明瞭にする為の人生でもあります。

皆様の新年が「迎春」でありますように・・・・・・合掌。

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。

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悪しからず?

いやはや何とも・・・今年も残す所3週弱ですな。

14日は、赤穂浪士の討ち入りの日で、毎年恒例の高輪・泉岳寺にて「義」を思う人々との交流会。

師走で思うべき、心がけるべき事項に「足」がある。

仏教じゃ、信仰に何が必要かと言えば「具足戒」で、「師」に「足」の有無を問われるのである。

【阿師の定義】

阿とは、発語の助字で、親しみや、或いは多少軽侮の意を含む接頭語である。和尚さん、の意。或いは以下のように道元禅師は、邪師と同義で用いる。
「邪師」とは、・・・・仏法を正しく伝えてくれない師匠のこと。正師の対語。

『まことにかなしむべし、仏法僧時節にあひながら、仏法僧の怨敵となりぬ、三宝の山にのぼりながら、空手にしてかへり、三宝の海にいりながら、空手にしてかへらんことは、たとひ千仏万祖出世にあふとも、得度の期なく、発心の方を失するなり。これ、経巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりて、かくのごとし。おほく外道・邪師にしたがふによりて、かくのごとし。 75巻本系統『正法眼蔵』「発菩提心」卷』

『後来の阿師等、かつて仏法全道をきかず、祖道全靠なく、本分にくらきともがら、わづかに一両の少分に矜高して、かくのごとく宗称を立するなり。』・・・・・・ 『正法眼蔵』「仏道」巻

道元は、高名な仏教の師に出会って「悟り」を得たのではなく、喜々として寺の雑用の使い走りをしている初心の修行僧に学びを得たのである。

「邪師」に連なって、来世をも失う危険も察したのである。道元の存在より有に700百年以上の歳月を経て、「正法眼蔵」の比重は増している筈であろう。

禅宗の曹洞宗は「法華禅」である。

法華経の信仰の経緯を前提にして、『只管(しかん)打坐(たざ)』するのである。

法華経を「ボケ教」にして、信者から金品を巻き上げる団体も有る様で、昨日、見たアニメ(仏陀再誕)では、「幸福の科学」が、「池田大作」を想定してドラマ化していた。

じゃ「幸福の科学」は何をしているかと言えば、人間を「媒体(ばいたい)」の無い「壊れた蓄音機」に洗脳しているのである。

「永遠に連なる」事で、「生死の存在価値」がある。

「永遠に連なる」為の媒体を運営すべきと筆者は力説する。

ステーキを食べる時、焼き加減は如何しますか?と聞かれ、毎日、食べている素振りで「ミデイアム」などと注文するが、この「ミデイアム」は媒体の意味もある。

「ミデイアム」を「中ぐらい」の意味と思うのは勝手だが、些(いささ)か消化には程遠く、「人糞製造機」の役をこなしているに過ぎないと思われる。

似た感覚で、「物質」の意味も咀嚼(そしゃく)されていない。英語では「マテリアル」だが、「母」や「木」、「源」の意味もある。

英語の語源はラテン語に拠る所が多い。ラテン語では「MATER」が「母」の意味を持つ。

「MATER」には「大地母神」の意味も有り、「イダの母なる神」で、「イデアー」とも呼ばれる。

「MATER」の二番目の『A』を「O」に訳して「H」を入れ、「悦・智」として伝えるから「母」なのであろう。

考える事に「母性」がなければ、「イデアー」ではないのかも?。

「MATER」は、やはり「物質」を意味する「MATTER』の語源でもある。

映画でヒットした「マトリックス」は「子宮」の意味を優先するとも言われる。

狭量(狡猾)な管理体質に依存していては、本来の自己を失う危険性を「ビジュアル」化した「マトリックス」を知って頂きたい。

狭量な、あるいは綺麗に言えば社会の部分であることに没頭し、自己を失う危険の無い様に、「クリスマス」には「ツリー」を飾る。

一般的には「樅(もみ)の木」を用い、「木の信仰に従う」で「樅の木」を用いる。

「伊勢神宮」の造営の「御用材」も、何故か?「木曽の材木」を用いる。

「木の信仰」が、口先に成れば、「木」の上に「口」が乗り「呆ける」のである。

「木」の下に「口」がくれば、「杏(あんず)」である。

「呆け」に留意すれば、「保ち」になる。

目に見えない「年」ではあるが、「媒体」として存在する「有り難さ」に感謝しつつ、良き年を迎えられます様に・・・

合掌

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求愛?

求愛と聞いて?何を連想しますか?

自然界からの求愛を感じた事はありますか?

人間は他の動物より「音」に弱い感性から出発点を設けられている。自然界の恩恵=自己の演じる(奉じる)舞台でもある?

仏教では「愛」は煩悩とされ、人間だけでなく山川草木国土などが成仏する機縁を説く。

早く人間中心主義から脱却するのも、仏教の教え。池田大作の唱える創価学会は何時までたっても人間の煩悩が渦巻く「そうか・がっかり」である。

「我」を禁じて、個々の大成を願う仏教は、「我」は宇宙とも説く。「小我」を構築する迄は、「我」を「侮る(あなどる・慢)」、我慢の「我流」は禁物なのである。

話芸の落語は、我慢を辛抱、忍耐に置き換えることが本来の「落ち」である。仏教では「心」を「集落」と看做(みな)す段階が有る。

心世界の構築が、あらゆる宗教の意義と思われる。禅では心の裏を問うので、他の宗派との距離を置く。これを「教外別伝」と称す。

自我の時間を悔い改め(那)、属性(求那・グナ)を習い重ねていくところに、曼荼羅世界への進展が有る。

例外も勿論有り、「明王」の信仰に至って、「愛」の世界の壮絶さを知る事に成っている様だ

通説として、毒蛇、毒虫を食らう孔雀の上に乗る孔雀明王の境地に「愛」があるとも・・・・・・。

曼荼羅(まんだら)と信者を繋げる位置に「明王」の世界が有る。

キリスト教では、「アガペー」を「神様」からの「愛」と定義するが、古代ギリシャでは未だ、キリスト教が存在していないので、「アガペー」は違う意味とされる。簡単な紹介記事を見て頂こう。

【四つの愛】

古代ギリシャ人は《愛》を大きく分けて四つに分類していました。

フィリア(φιλία):友愛。
エロス(έρως):性愛、肉体的(物理的)な愛。
アガペー(αγάπη):意味消失?
ストルゲー(στοργή):家族愛。

アガペーの意味については、個人的見解として、どうやら古代ギリシャ時代の意味は消失してしまっているのではないかと思いました。
wikipediaのアガペーの項目にはかなりの情報がありました。
しかし、それらの情報は主にキリスト教に取り入れられて以降のアガペーの説明であって、古代ギリシャ時代の説明ではありませんでした。
ちなみに、キリスト教で用いられるようになってからのアガペーは《神の愛》という意味で落ち着いているようです。

これでは肝心な意味が無い事になりそうだ。よく考えれば、自己形成に関わる「愛」が必要なんじゃないかと思える人は、「禅宗」の教えを受け入れ易い位置を持っている。

日本の国には「建国の大義」と、「開闢(かいびゃく)の精神」を両立する国是が有る。

この両者の確立に必要な観念(理念)が、「二重使役(にじゅうしえき)」の乱用をしない暗黙の了解であろう。

えっ、「二重使役」なんて、初めて聞く言葉だと思える人は、「遺伝子構造」を否定するようなものだ。

「遺伝子構造」は、「二重螺旋(らせん)」の形態で知られる。

「生」と「死」の間(はざま)で、活路を見出す「遺伝子」は、最近、知られた事実ではなく、今を遡(さかのぼ)る江戸時代初期には、肯定されていた。

「徳川家康」の隠居処を「西の丸」とし、この「西の丸」に向かう道に、二つの橋が有る。

江戸城の外から、江戸城に入城して、奥の橋を「西の丸下乗橋」と云い、この橋を古くから「二重橋」と言った。

「意馬心猿」の言葉ではないが、大名達が「下馬」して、仰いだ「神聖」さを思い知る事が大事であろう。

大名達の意向を要約すれば、「二重使役(自我)」の乱用をしない為の「二重橋」である。

「橋」は、異空間との「渡し」でもある。

「渡し」は、「和・足し」で、「伊勢神宮」も「渡会」に鎮座する。

仏教では、神道の信仰への言葉が足りず、「衆生済度」で意味を補う。「渡し」と「度」に注目されたい。

古今の書籍は、心身の大成を願うが、故意に触れない箇所が有る。

「五臓六腑」の「三焦(さんしょう)」や、神経の「太陽叢神経」、或いは神経の「A10神経」などである。

これは、何れも「信仰」によって存在価値、機能が設けられるものである。

知識や体験の乏しい者の吐く言葉では、「信仰」の道程が杜撰(ずさん)となる。

アメリカのプロテスタントのある宗派では、信者からの「献金」が何兆円もあるそうだ。

プロテスタントは「神様」と「直接」的信仰だが、然し、「神様」には、その「献金」の一部も届いていない。

日本の新興宗教も似ている。

「尾頭付き」の宗教用語ではない説法を繰り返し、信者から「お金」を巻き上げる。

「日本を何とかせにゃイカン」と思うのは「私一人」だけであろうか?

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。合掌

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雲水?

雲の如く定まれる住所もなく、
 水の如くに流れてゆきて、よる処もなきをこそ僧とは言ふなり(正法眼蔵随聞記第五)・・・・・・
といわれるように、雲水行脚(あんぎゃ)修行僧の略称で、行雲流水の如く諸方の師をたずね物にとらわれることなく、 真実の自己に目覚め、正しく生きるために道を求めて行脚する修行僧のことです。

これが転じて、一定の禅寺に足を留めて、 修行生活をしている修行僧をも、雲水と呼ぶようになったのだといいます。

まっ、世間じゃ「聞くは一時の恥じ、聞かぬは一生の恥じ」なんて言いますが、禅寺じゃ、「河童(かっぱ)」の世界じゃないが、相対の不備に始まり、相反の恩恵に至れる悟境への誘(いざな)いを趣旨とする。

世間の言う所の相対より、より専修的な相対の世界がなければ、誰も修行なぞ「やる気」を持たない。

現に福井県の永平寺にゃ、毎年、大学出の200人近い禅の修行志願者(新安居・しんあご)が訪れる。

その永平寺の代表になれば、「又、永平寺に戻って修行のし直しをします」と言う趣旨の辞世を用意する「決まり」があるそうじゃ.

博打打ちの修行では、「馴れ馴れしい」のを「アゴ」と云う。「家や、家族、居場所すら失う危険な『虎の子』を賭けて、境地を開く客」に「心中(しんじゅう)」をすすめてはいけないのである。

永平寺(曹洞宗)じゃ、禅寺への修行を「掛塔」で「かた」、臨済宗じゃ、「掛塔」で「かとう」と言うそうで、般若心経の読み方も異なる。

修行の出来る順に、何故か?「聞く順番」があるが、禅は「自己究明」の道なれば、「聞くは一生の恥じ、聞かぬは一時の恥じ」とも相成る。

「雑駁」は「誰が胸中」にありしか?もっとも「雑駁」を親身に尋ねるは「伊勢」への「お蔭参り」の先とも成るが、前途洋々の有り難さかな

布施」を間違えぬ様に、神道では奈良県・天理市に「石上神宮(いそのかみじんぐう)」を設けて、「布覩御魂(ふつのみたま)」を祀(まつ)る。

「石上神宮」は、歴史の教科書にも登場する仏教の導入を巡った「蘇我・物部の戦い」の「物部氏」の氏神を祀るとも言われる。

「石上神宮」には、「道返し(ちがえし)」の伝承が有る。

仏教を政権の道具と墮する事の無い計らいが、「道返し」の伝承にある。

布施行を率先するのが、僧としての修行の筈、自分の所に布施を強要するのは如何な修行か?

波羅密行の初心は「布施行」じゃ。

雲水行を「雲衲(うんのう)」とも云い、「衲」は「繕(つくろ)う」意味。破れ衣になっても、繕って修行に励むのである。

「終日、説いて未だ説かず。終日、行じて未だ行ぜず」の世界じゃ。暗雲を払うためもあれば、暗雲を呼ぶ為もある。

師匠、悟りが得たいです!。」「ならば、茶碗と箸を持ってきなさい!」の世界じゃ。

「五重相対(内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・教観相対)」の修行を専修しないから、何もかも「手どまり」の不具合となっている。勉冉・勉冉・また勉冉(べんぜん)。

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。合掌


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彷徨?

彷徨(ほうこう)・・・・・・「あてもなく、さまようこと」と簡単な辞書には記載されている。・・・が然し、「禅の大家(たいか)」は、漢字を分解して「方を行じ、皇(すめらぎ)を祀ること」と看破する。・・・・・・東大の本当のエリートは、インド哲学科で専修する学徒と決まっている。

そのインド哲学科の学徒も、本当の卒業はアジアを彷徨してからという暗黙の了解を得ている。

東大の試験慣れした成績の良い者は上位から十一番目までは、黙って大蔵省、今の財務省に入省する決まりがあるようだ。

優秀な筈の東大卒のエリートが、「ノーパンしゃぶしゃぶ」の接待で奢侈(しゃし)に奢(おご)ったのは、何時の日の出来事か??????。

アジアの彷徨を試練とする、そこで「アジア」とは何ぞやと自己に問いかけるのが自然な発想だが、多くの学徒はこの域に達せず、肉眼に頼るアジアを意識する。

観光は、「光の様々」を体験する事で、「光の恩恵」が宿らねば、「一過性」の異次元を知るだけだ。

「旅行」は「方の衣」を行じる事でもある。異文化への畏敬が宿らねば、「旅行」ではない。

外地を「看做(みな)す」には、心中のデーター不足を恥じねば成らぬ。

この定義に則した外遊を一刻も早く心身に宿す事が懸命と筆者は憂える。

「アジア」は、漢字で書けば、「亜細亜」で、この「亜」には、「つぐ」意味と、「かべ」の意味が有る。

霊性を磨く為の「彷徨」なれば、「つぐ」意味と、「かべ」の意味の併存の確立に向かうのである。

今一度、「亜細亜」を検証すれば、「細」は「くわし」と読み、細分化する行と読める。

仏道も、飛行機の機体の如く「圧力隔壁」を設けねば、他に接し自己の心身の何らかの圧力で、意識が変容してしまうのである。

ゆえに「方を行じ、皇(すめらぎ)を祀る」彷徨が正しいと、「坐」を得る事が可能とも成る。

坐禅のブームだが「坐禅」の「坐」を得ているのは、「御仏」しか居ない。

禅寺の運営者は、深く肝銘すべきかと思う。

臨済宗の「臨済義玄」は、「臨済録」で、「わしの話しを聞くより、5400巻の経を読め」と強要している。

「経」の数は、5048巻、残る352巻を胸中に抱く、「祖師」を訪ねて、行脚(あんぎゃ)せよと説く。

「白雲去来」、空を流れる白雲ですら、「祖師」への奉公を我が志としている。

 

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。合掌


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歓喜?

「歓喜に寄せて」

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
(ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上の楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(シラーの原詩:
時流の刀が切り離したものを
貧しき者らは王侯の兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての被造物は
創造主の乳房から歓喜を飲み、
すべての善人とすべての悪人は
創造主の薔薇の踏み跡をたどる。

口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を
創造主は我々に与えた
快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ
智天使ケルビムは神の御前に立つ

天の星々がきらびやかな天空を
飛びゆくように、楽しげに
兄弟たちよ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない

諸人よ、ひざまずいたか
世界よ、創造主を予感するか
星空の彼方に神を求めよ
星々の上に、神は必ず住みたもう・・・・・・・アーメン

例えて言えば人生は、自己の静かなる「容器」の確立でもあろう。「和敬静寂」の道でもある。歳末助け合い運動にご協力を・桜鍾青年隊は昭和50年代より恵まれない人々へのボランテイア活動も行っています。・・・八千代銀行・西池袋支店・口座番号・0401114・口座名・桜鍾青年隊へご支援の程。合掌

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月の光?

明日は「七五三」。そして関東では今日は「二の酉」。

「酉」は、的屋の用語(丁符)では宇宙を意味する。

遠く宇宙を旅して来て、宇宙空間での「忘れ物」をしない様に「熊手」でかき集める意図があるようだ。

「的屋」の信仰は「神農」であり、中国で文字を最初に伝えた「皇帝」であり、漢字の「漢」は「銀河」を意味する。

「漢」を「おとこ」と読むのは、宇宙的スケールを意図とする。

タイトルの「月の光」は、漢字の部首で「月」の別読みで「にくづき」と読まれるがゆえに・・・・・・・

別のサイト(ヤフー)で、更新中の「雄叫び 桜鍾青年隊」でも苦言を呈したが神主が「祓(はら)いの行」を実践していれば、当然の如く「木の信仰」が現前するのである。

「祓いたまえ 清めたまえ」と、「実存の神様」に祈れば、「神様」は『了解』するのである。

但(ただ)し、「了解」の意味を神主が、肯定しなければ「お祓い」も「猿真似」に終始する。

仏教でも、「了解(了別)」に至る修行が求められ、「心」の発達心理(悟り)として、「心(集落)」・「意(思量)」・「識(了別)」と区分化される。

意」は「末那識(まなしき)」、「識」は「阿頼耶識(あらやしき)」と説かれている。「識」は「心心王」とも説く。

まっ、「思量」を蓄え、「思量」の方向性が現象と事象の併存を垣間(かいま)みて、「阿頼耶識」に至るとも説かれる。

現在の世界地図で言えば、アメリカが「末那識」の修行をする国ともされる。

「本能」の悔い改めが「末那識」でもある。アメリカが「犯罪大国」になるのも、決して「多民族国家」なるがゆえでもない。

為に、プロテスタントの宗教が必然性を帯びて、在来のプロテスタント、およそ2000から3000あるともいわれるプロテスタントの宗派の信仰を体験することが、「フロンテイア(パイオニア)精神」とされる。

修行には「先例(先霊)」を信仰し、敬意で終始せねばならぬ。

修行の成就に「蝦蟇(がま)」を大切にする気風もある有る様で、「蛙」が長寿の必然性に目覚め、「蝦蟇」への昇華を望むとも言われる。

その「蝦蟇」より修行に秀でた存在も必要で、「蝦蟇仙人」の登場と成る。

「蝦蟇仙人」は、中国だけでなく日本の筑波山にも存在した様で、関東の小学校では、筑波山に遠足をして、個々の人生の覚醒(かくせい)を(うなが)促す。

学問でも、大業を望んで「筑波学園」構想が話題ともなった。

「筑」は、「竹」にも通じ、「節」に「気」を宿して天に向かって伸びる雄姿(ゆうし)に我が心を映すのだろうか?

「節」を「チャンク」と言い、例えば「205148953758・・」などの数字を覚えるのに、そのままでは印象に薄く、四桁(2051 4895 3758・・)ごとに区分すると覚え易いので「チャンク学習法」もあるようだ。

一般的に五桁から七桁位までが印象には残るが、それ以上の「羅列(られつ)」は無理ともされる。。

この「節(チャンク)」を「木の信仰」として、筑紫に「櫛田神社」がある。「節」にそれぞれの「木の信仰」を宿す信仰である。

「櫛」は「神様」の「9・4」に通じるとされ、「伊勢神宮」の「神官」にも「久志本」の名がある。

・・・・・・そもそも蟾蜍(がま)は土の精で、上は月に感応し、性は霊異で土に棲んで虫を食べる。上は月魄に感応し、蟾蜍は月に住むという。「淮南子」(精神訓)に、『日の中には駿烏あり、月の中には蟾蜍がいるとも書かれる。『駿鳥』は三本足の「カラス」で、日本サッカーのシンボルマークにもなっている。
・・・左慈に仙術を教わった三国時代の葛玄(かつげん)、もしくは呂洞賓に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾(りゅう かいせん)をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれていない。しかし、蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている。・・・・・・合掌

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