喝?「雄叫び 桜鍾青年隊」から転載

「伊沢サン」の「みたまのふゆ」を阻害しては国家は成立しないのである。

当然、宮内庁から、届くべき「図書費」が届かない。

「有職故実(ゆうそくこじつ)」の大意を無視しては成らないと思うのである。

「有職」を公家、「故実」を武士の作法とする見解もある。

忠臣蔵、松の廊下の刃傷沙汰は、この「有職」と「故実」の常識のギャップが招いたとも?

歌舞伎では、「見得」の「押し戻し」が芸の義と成るので、作中人物の名を敢えて違えるのである。

一般的に「有識」とは過去の先例に関する知識を指し、「故実」とは公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す。

そうした知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ。後に転じて「有職」と呼ぶようになった。

なお今日、深い学識・見識を持つ人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのはその名残である。

2月11日、建国記念日であり、旧の言い方では紀元節。

「木の信仰」の道であるから奈良・「橿原」に「建国」の大義を偲ぶ日でもある。

木の信仰」と言えば、全国に一万余りある諏訪神社の総本社「諏訪大社」の「御柱祭り」に用いる「御柱」も、「木の信仰」に従うで「樅」の大木である。

有名な「木落し」は、何があっても「木の信仰(御柱)」に縋り付く「男伊達」を世間に広める舞台でもある。

九州の諏訪神社では、「おくんち祭り」を行うが、「くんち」は自然界で多用する「訓・智」で、語源は「アイヌ語」である。

「神様の世界」は、俗界の「勝負事」ではなく、「個体差」を「暗示・啓示」する世界で、早くに人間界の迷妄を卒業させる意図がある。

「個体差」の存在に目覚める「気力」で、沖縄の方言では「くんち」は「やる気」を意味する。

「アイヌ民族」は日本全土に居たが、日本の開示に伴い、北海道や沖縄に生活の拠点を設けた

神事に用いる「幣(ぬさ)」は、アイヌ語では、木を削った「イナウ」を捧げる意味。

その「イナウ」が埼玉県の秩父に民芸品としてあり、北海道の秩父別(ちっぷべつ)は、「我々の辿り着く川」の意味がある。

白鳥の飛来で有名な、関東、埼玉県、比企郡、川島(かわじま)町を流れる「越辺川(おっぺがわ)」の読みは「アイヌ語」である。

「訓・智」の絶対効果を持つ「神様の訓・智」で「おくんち」となり、漢字の読みで「訓読み」は、日本語の音にする読み、「訓」は「まさし・ただし・さとし」の音響効果を有すのである。

日本国は「木の信仰」の明瞭を期して、「橿原」の「橿」は漢字でなく、「邦字」とされる。

「事由」の「事」は「神様の世界」、「事」に触れないから「無事」である。

日本の行政では、「事」を「侵さぬ」、「無事」の大義を「知る」者が「知事」の任につく事に成っている。

「無事息災」は、出力の「息」が「災い」に及ばぬから「息災」である。

表現の「不可蝕」に留意し、意味無く「触れる」事を「恥じ」とするのも、日本文化の特色であろう。

他方、紀元節を知らぬ、節度無く、無知にして寄付をしない文化人達が、それぞれ自己の迷妄を出し合い、泡沫(うたかた)の酔いに身を任せ、自責の念から自己を解放する学芸会の日でもある。

凡(およ)そ、文化というからには何かしらの「回帰性」を交え、自他の自己形成の奮起を促すべきかと思う。

360度の角度を有していれば、円(縁・よすが)となる。

360度の旅を時計回りに行えば、右目が内在の「見・聞き」、左目が外界の「非・祟り」を確認する事ができる。

時計回りと逆に移動すれば、左目が内在の「見・聞き」、右目が外界の「非・祟り」を確認出来る。

仏教に限らず、「右繞(うにょう)・左繞(さにょう)」の周回性を修行に盛り込んだ宗教は山ほど存在する。

円の大成である、「円鏡智」を説く、仏教では想像を絶する空間と時間の恩恵への感謝から、信仰形態が生じる。

発意(ほっち)の証(あかし)は、「賛美・役・録・事由・度」の「欠く・度」の線形を有して、自己の回帰性を確かめるに至る。

海を越えた西洋でも、凡そ600曲ほどの讃美歌を宿す使命を旗幟(きし)とし、ゴスペルを唄って来た者に歌手への道は開かれるのである。

対して、神道は「旧・事由・度」の自己矯正を「産(神様の啓示)・戒」行い、回帰性を四角の線形に求める。

大脳の機能性からも、視点を四回、替えることで、外界と内在性の確認を安易におこなえるのであり、長じれば立体と化し、宇宙の神秘とも云われる「キュウーブ(立方)」になる。

台北の故宮博物院に収蔵される5000年前に作られた玉鐴。高さ47cm、先端の円い穴は天であり、それを囲んだ四角い形は大地を表しています。

四角い大地が何段にも重ねられ天に向かって延びています。玉鐴の内側は上から下まで円くくりぬかれており、その穴は天の神と地上の人間とを結ぶ通り道とされています。

四角い大地と円い天、この玉鐴を持つ者こそ、神の意志を地上に伝える王でした。

玉鐴は王の権力、すなわち政治権力の象徴と考えられています。・・・・・・

様々な体験や、経験を踏まえて「立方体」になるなら、様々な「可変性」も有している事に成る。

不安な方は、「立方体(キュウーブ)」に関する書籍や、映像作品を見てから自己の打診を行えば善い。

円と四角(方)、古人の埋葬には「前方後円墳」であり、重畳なる「瑞穂(みずほ)」の思想を頂く生活(たつき)では、食器に箪笥(たんす)を用いる。

食への感謝、食して後の言動性に重きを置かなかった戦後教育では、衣服や雑貨を仕舞う箪笥(タンス)を家具に据え置いたままである。

箪笥は、今で云う丸や四角の弁当箱のことである。

電化製品の保温機能も無い時代の「叡智(えいち)」とは、恩恵を害(そこな)わない戒律に安立(あんりゅう)を覚えたのである。

ギャルとは、低級、下品の代名詞でなく、「サルベージ」の修行者である、「サルベージ」とは、海の遭難者の救助や、沈没船の引き上げを意味する。

「超」も、「うざい」も「きもい」も、「サルベージ用語」なのである。

前記理由に従い、正確を期すれば「ギャル」は、「義・遣る」なのである。

物々交換、バーターがヘタクソになった現代で、「義」や「愛」、「生きる勇気」と交換出来る何物を貴方は持っていますか?

「旧・事由(90)」に関して、蘊蓄(うんちく)を述べれば、東京の渋谷の「渋」は止まりの生態の下に四つの線形を設ける、渋谷ギャルの上級者は「澁・屋」と肝銘し、「止まり」の生態に三つの視点を要す。

静止形に疑問の観点を設けるのは、仏教の禅だけでなく、個々の哲学でもある。
「釈尊」以前にも、インドには「禅」を懐疑する信仰が在った。

「釈尊」は、禅に「三昧(さんまい)」を求めたのである。
「釈尊」から28代目の「達磨」が、「禅」の境地を伝道し、今に至った。

正確に云えば「達磨」の禅は、「達磨」の禅で、「二祖」以降の禅は個々の禅らしきものと言える。

禅の大意に「報本反始」の修整が求められる。ほうほん‐はんし【報本反始】 《「礼記」郊特牲の「本に報い、 始めに反(かえ)る」から》自然や祖先の恩恵に報いるという道徳観を示す語。

日本では 幕末より第二次大戦まで、祖先信仰と国家神道推進のため政府により盛んに鼓吹され た。

何故?「本に報い始めに反(かえ)る」思想が戦後に突然、消滅したのか?謎である?。

「伊沢サン」への不遇対応(多年にわたる隔離幽閉)と妙に重なるのである。

精進と命数の大事を伝えているのは、「桜鍾青年隊」だけである。

人生に精進と命数の履行性、履修性を求めねば、「神経症」や「精神疾患」を招くのだ。

多年にわたる精神的自虐を国民に強いていたと思うのは私一人ではあるまい。

謎ついでに、

「國之常立神」の開示による「世直し」の教団「おほもと(大本)」を紙切れ一枚残さず弾圧した経緯と重なるのである。

「おほもと(大本)」の信者には、「合気道の植芝盛平」や「日本海海戦の「秋山真之」がいた。

「三昧」を求めれば、「三昧耶」であり、「三摩耶」でもある。

悟りの「三昧」以前までは、「教条主義」で「暗唱」の優劣がマジョリテイ的に主流と思われる事もある様だ。

暗証は仏教語である。禅家(ぜんけ)で用いるところでは、経論(きょうろん)の理解や 研究を軽視し、座禅などの実践だけで悟りに到達できるとすることをいう。

暗唱の禅師とは、「祖師を求めて行脚しない修行僧」を罵(ののし)る言葉。

「経に依って義を解するは三世仏の讎(あだ)。経を離れて義を解するは魔説に同じ」・・・「百丈広録」

禅が敢えて、「否定の否定」を打ち出して、個々の既成の狭隘(きょうあい)なる自信を打ち砕く意義が此処にも存在する。

仏教経典には、「三昧耶」、「三摩耶」、両者の存在を示している。

精進の大義を加えれば、「耶」は「疑問・反語・感嘆」の三種の性格を有し、「三昧・三摩」に、この三種(耶)を掛けると「さざんがきゅう」、なおかつ「クロス(十字架)」の尊厳を失わないで「サザン・クロス(南十字星)」の明光と関わる。

「旧・事由」を、自然界の逆旅(げきりょ・はたご)と思えば、「10と9」で「問う・旧」、云うまでもなく「東急」を意味し、「旧愛・求愛」を良しとするギャルは、「109」を機智(機知)とするのである。

慈愛はギャルばかりの習うべき属性ではないと、メンズの「109」も女子の「109」と対面しているのである。

余談だが「ギャル伝説」を誤解して、「GAL」ガルと読んで、「高橋信二」は迷妄に辿り着くインスピレーション団体を運営し、その「ガル」にノイローゼで訪れた「大川隆法」が、インスピレーションを更に虚妄にし、「原典回帰」の原理を疎遠にし「幸福の科学」を運営しているとも?

ヘブライ語の聖書には「神様の名」は「9文字」、西洋は濁音が多く、濁音を「清音」に直す神道に拠れば「10文字」となる。

「神様の名」は「9文字」と「10文字」で構成される事に成る。

「旧・事由(9・10)」の「旧」にも「事由」にも、侵害、侵略しないから「信仰」であり、「宗教」であろう。

ゆえに「宗教」とは「旧」と「事由」を述べた「原典回帰」の道でもある。

止まる事が少ないと書いて、「歩」。「歩」に「三ずい」を加えれば「渉(わた)る」で、難解を克服する漢字となる。

渋谷駅のスクランブル交差点に立てば、両者の存在を知る事が出来る。至福の一時でもあろう。

求心は、救心であり、堕落との休心、「旧に回帰する」心性こそ、本来の祝時(祝い事)と思われる。
合掌
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衆生の百千種の諸病、更互して恒に来たりて悩まさる。

死賊、捕らえて伺い、常に殺さんと欲し、無量の衆苦もて自ら沈没す。

云何(いかん)が善人も復た悩を加えんや。

讒謗(ざんぼう)謀害して慈仁無くんば、

未だ彼れを傷つくるに及ばざるも、殃(わざわ)いを身に被(こうむ)る。

俗人、悩を起こすは、是れ恕(じょ)すべし。

此の事、世法にして悪業の因なるも、

亦た自ら『我れ善を修せり』と言わず。

清浄道(しょうじょうどう)を求むるの出家の人にして、瞋恚を生じて嫉心(しっしん)を懐(いだ)かば、

清令(しょうれい)なる雲中に毒火を放てるなり。

当(まさ)に知るべし、此の悪罪の極深なることを。

阿蘭若(不諍・ふじょう)の人、嫉妬を興さば、阿羅漢有りて、他心智もて、

『汝よ、何ぞ愚かなるや』と教誨苦責(くしゃく)せん。

嫉妬すれば、自ら功徳の本を破す。

若し供養を求むれば、当に自ら集むべし。

諸々の功徳の本、身を荘厳す。

若し、持戒、禅、多聞ならずんば、虚仮(こけ)の染衣(ぜんえ)にして法身を破す。

実に是れ乞児(こつじ)にして弊悪の人なり。

云何(いかん)が供養を求めて身を利さんや、

飢渇寒熱(きかつかんねつ)の百千の苦、

衆生、常に此の諸々の悩に困(くる)しみ、

身心の苦厄、窮尽(ぐじん)する無し。

云何が善人にして諸々の悩を加うるや、

譬(たと)うるに、病瘡(びょうそう)の針を以て刺すが如く、

亦た獄囚の拷(う)たれて未だ決せざるが如く。

苦厄、身に纏(まと)いて、衆悩集まる。

云何が慈悲もて更(あらた)めて劇ならしめんや。

是くの如く種々に悩覚を呵(か)し、是くの如く正観して悩覚を除(のぞ)かん。

・・・坐禅三昧経より「姚秦三蔵鳩摩羅什(くまらじゅう)訳」

三摩耶戒(さんまやかい)三返

われらはみほとけの子なり
ひとえに如来大悲の本誓(ほんぜい)を
仰いで不二(ふに)の浄信に安住し
菩薩利他の行業(ぎょうごう)を励みて
法身(みほとけ)の慧命(いのち)を
相続し奉らん

   おん さんまや さとばん            
(ほとけさまの静かなさとりの境地に住
 します。) 合掌

・・・後段、画像はエピステーメーの像。当初から頭部を構築しなかったのかは謎である。もし、そうであるなら、人は如何に他人の顔色を窺(うかが)いながら、本来の「知識」とはかけ離れたイメージに頼っているか?の芸術性と言える。

〔哲〕 プラトン・アリストテレスが、単なる感覚的知覚日常的意見であるドクサ(=憶見)に対立させて、確かな理性的認識をさして呼んだ語。

ラテン語のスキエンティア scientia(英語のscience の語源)にあたるギリシア語。もともとは〈ドクサ doxa〉つまり蓋然的な見解と対立し,とくにプラトンにおいて真実在に対する学問的で厳密な知を意味した。現代哲学においては,フランス構造主義とりわけ M. フーコーによって新しい意味を与えられた。すなわちそれは,ある時代において多様な諸学問を横切って言説のレベルで見いだされる連関の総体のことである。

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喝?「雄叫び 桜鍾青年隊」から転載 への1件のフィードバック

  1. izawanifty より:

    密教における四重禁戒は、根本的な四つの戒をいい、大日経を依拠とし、三昧耶戒を戒体としている。
    不応捨正法戒
    不捨離菩提
    不応慳悋正法戒
    不応不利衆生行戒

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